mitsu-uroko奈良原至の肖像

出典:石瀧豊美『玄洋社発掘』増補版
西日本新聞社 1997年

撮影年代未詳。奈良原の甥の家に伝わったもの。
夢野久作はこの奈良原の容貌を評して以下のように記した。

その真黒く、物凄く輝く眼光は常に鉄壁をも貫く正義観念を凝視していた。その怒った鼻。一文字にギューと締まった唇。殺気を横たえた太い眉。その間に凝結、■■(石偏に旁、石偏に薄:ほうはく)している凄愴の気魄はさながらに鉄と火と血の中を突破して来た志士の生涯の断面そのものであった。

青黒い地獄色の皮膚、前額に乱れかかった縮れ毛。鎧の仮面に似た黄褐色の怒髭、乱髯。それ等に直面して、その黒い瞳に凝視されたならば、如何なる天魔鬼神でも一縮みに縮み上ったであろう。

況んやその老いてますます筋骨隆々たる、精悍そのもののような巨躯に、一刀を提げて出迎えられたならば、如何なる無法者と雖も、手足が突張って動けなくなったであろう。どうかした人間だったら、その翁の真黒い直視に会った瞬間に「斬られたッ」と言う錯覚を起して引っくり返ったかもしれない。

(中略)

奈良原到翁の風貌には、そうした冴え切った凄絶な性格が、ありのままに露出していた。微塵でも正義に背く奴は容赦なくタタキ斬り蹴飛ばして行く人と言う感じに、一眼で打たれてしまうのであった。

(夢野久作『近世快人伝』 『夢野久作全集』7 三一書房 1970年)

吉田貫三郎画
『新青年』6月号 博文館 1935年

昭和10(1935)年6月1日発行の雑誌『新青年』6月号誌上に掲載された夢野久作の『近世快人伝』第3回、「奈良原到」上の巻に、口絵として描かれた奈良原の肖像。
吉田貫三郎は明治42(1909)年生まれの挿絵画家で、新漫画派集団に参加した人物である。




文責・長崎うめの